鰹節の
 歴史

 

カツオの歴史

約8000年前の縄文時代に青森県八戸遺跡でのカツオ遺骨が発見されています。カツオは、そんな昔から食べられていました。
400年代頃の古墳文化時代には、堅魚(干しカツオ)が造られ、堅魚の煎汁(いろり)が料理に使われました。
701年に大宝律令、賦役令により「堅魚」、「煮堅魚」、「堅魚煎汁」、が重要貢納品と指定されます。このころ伊豆、志摩、駿河、紀伊、土佐などでカツオが盛んに取られていました。
「堅魚」とはカツオを干し固めた物。「煮堅魚」とは、カツオを煮てから干し堅めた物。「堅魚煎汁」とは、煮汁をさらに煮詰め調味料とした物です。
平安時代には、堅魚や煮堅魚、堅魚煮汁を貢納する国が指定されます。堅魚は、伊豆、駿河、志摩、相模、安房、紀伊、阿波、土佐、豊後、日向です。また、煮堅魚は、駿河から。堅魚煮汁は、駿河、伊勢から貢納されました
鎌倉時代には、「廚事類記」に鰹(干しカツオ)、鰹煎汁の料理が記載されています。これらの時代、堅魚煮汁がもっとも重要視されています。料理に使う調味料としてなくてはならない物になっていました。堅魚煮汁は、とても古い歴史を持った調味料と言えます。

堅魚から鰹節へ

鰹節が造られるのは、室町時代に入ってからになります。1489年「四条流包丁書」の中に「花鰹」の文字があるそうです。これは、鰹節を削った物だと思えます。このことから鰹節が造られたのは、室町時代の前半ではないかと考えています。しかし今みたいにカビのついた鰹節ではなく堅めのなまり節みたいな物だと思います。堅魚をワラなどで燻してからワラや麻など吊るし乾かした物だそうです。今の荒節の原型となり燻乾することが堅魚から鰹節へと移って行く事になります。カツオを干した物(堅魚)からカツオを燻し固めることで、一応は、鰹節になるわけです。

燻乾の起源としては、インドネシア方面からから貿易船に乗ってやって来たという説もあります。琉球船が盛んに東南アジアを交易し魚を燻乾する方法を南西日本に伝えた、もしくは持ち帰った可能性があるということです。東南アジアは、魚を燻乾する習慣が、古くから多く存在していたり、カツオの煎汁を魚醤と共に調味料とする習慣も持っているためです。
カツオを燻し固めたものが、今の荒節のような痛みにくい形になるのは、江戸時代に入ってからになります。

鰹節荒節へ
これまで造られていた鰹節は長く日持せず遠くまで運ぶのに適していませんでした。江戸時代に入ると、この鰹節の改良が進んで行きます。それまでのワラなどを使った燻乾法から木(クヌギ、樫)を使った燻乾法が考え出されます。初めて考え造り上げるのが、紀州印南(和歌山県熊野印南浦)の漁師勘太郎だと言われています。これが今に言います”荒節”となり現在のような固乾法の製造となります。これ以前にも乾燥を急ぐため火熱を用いて造った鰹節があったそうですがやはり日持ちしなかったようです。甚太郎により考えだされたマキを使った燻乾製法は、秘伝とされていましたが、2代目甚太郎により土佐清水浦に伝えられ行きます。(この燻乾法は浦の掟として長年この2地区以外他国には、教えられませんでした。)

カビ付け節へ
土佐では、この燻乾法で固めた鰹節がさらに改良されて行きます。鰹節の腐敗防止と中に閉じ込められている水分を吸い出すだし日持ちさせるため、あらかじめカビを付ける方法が考えだされます。初めてカビ付けをした鰹節を造り上げたのが土佐清水浦の佐之助です。ここにカビを付けた仕上げ節が誕生することになります。この後、カビ付けをした改良節は高い評価を受け、全国に広まって行くことになります。
江戸時代後期から明治時代になると土佐、薩摩、伊豆節が3代名産品として全国に広まって行きます。伊豆節は、土佐節をさらに改良し燻乾に時間をかけ、カビ付けも4回以上行い本枯節を造り上げて行きます。
明治36年までには、鰹節製法は、本枯節が主流となります。

伊豆田子節歴史

田子地区で鰹を加工して造っていたもっとも古い証拠となるものは、733年(天平5年)に奈良の朝廷に「堅魚」を送った木簡が平城京跡(平城宮)から見つかっております。これには「伊豆国那賀郡丹科郷多具里物部千足調堅魚九連一丸」と書いてあります。これに出てくる多具里とは、”たぐり”と読むのですがそれが今の田子のことです。簡単に言いますと税金として田子から堅魚を朝廷に納めたものです。この時の堅魚とは701年大宝令海産物調賦令により記載されています。堅魚とは、カツオを干し乾て固めた物です

伊豆地方は、カツオの漁場として栄え堅魚造りも盛んになっていたと思われます。伊豆半島の田子地区は、かつて伊豆水軍があった風土で、海を舞台に活躍していました。伊豆節は、紀州、土佐、薩摩節に追いつくよう改良を続けて行くこととなります。1801年土佐から土佐節製造法が伝わるります。伝えたのは土佐の与市です。もともと紀州印南浦の漁師ですが伊豆に来る前は安房の千倉で土佐節を教えています。

土佐の与市
土佐の与市は、隣村の安良里で3年間鰹節製造法を指導します。この時、燻乾法の改良などが行なわれました。これは、土佐節をさらに改良した改良節で、長期にわたり保存がききます。これにより伊豆節が一応出来上がりることになります。伊豆田子節は、土佐の与市からの直伝となりこの後もかび付けを何度も繰り返して鰹節を乾かす方法か考案され、鰹節の改良が進んで行きます。鰹節をもっと美味しくするために伊豆田子節は、独特製法の「手火山式燻乾法」をあみだすこととなります。「手火山式燻乾法」とは、カツオの味を鰹節の中に閉じ込め燻し乾かす製法で強い火を使い味を凝縮させます。
これにより今の伊豆田子節が確立することとなります。
この「手火山式燻乾法」を使った改良節は、伊豆全体に広まって行き伊豆節独特の燻乾方法となります。この後の伊豆節は土佐、薩摩節と並び3代名産品と呼ばれるようになります。
1844年頃田子の鰹節職人若五郎と大五郎が安房に鰹節製造法を指導に行きます。とのころから盛んに田子の職人達がカツオの海流と共に転々と各地に指導に行き始めることとなります。これは、今と違い鰹節造りは季節限定だったため、カツオを追って職人達も追いかけて行くことになったようです。
田子地区は、明治から昭和にかけて漁業を中心とした鰹節加工業が栄えて行きます。昭和初期には、40艘のかつお船と40軒もの鰹節製造店がありました。高い評価を受けていた伊豆田子節は、主にご贈答用として、お祝いの席に多く使われて行きます。
しかし、昭和時代のオイルショックや200海里問題などが、かつお船の衰退を引き起こすことになります。しかも、かつお船の老朽化、漁法の変化、船の大型化などに伴い、かつお船は、徐々に姿を消して行きます。鰹節製造者も同様に少なくなって行きます。かつお船の衰退が鰹節製造店をも衰退させることとなります。
平成に入り田子地区の鰹節製造店は、4軒となりました。しかし、土佐の与市から教えられた製法と、伝統製法の「手火山式燻乾法」を今も、守り続けて現在にいたっております。

現在でもいいものを皆様にお届けできますよう日々精進しております。

カツオ・鰹について

カツオを使った料理方法は、古来より多くあり文献もたくさん残されております。これには、カツオが日本で沢山取れたことも一つの要因ですし、カツオは、煮ると堅くなるという特長があるため保存食として加工しやすかったためだと思います。鰹は、昔から日本料理に無くてはならない食材であり、とても重要視されています。これは、鰹節が料理を美味しく仕上げてくれるためです。鰹節を使いおだしを取るという調理方法も日本独特のものですが、日本人の味覚が鰹のだしが無いと物足りなく感じてしまうことと、鰹が保存が利くことがあげられると思います。今と違い遠くまで食品を運ぶには、かなりの時間が必要ですし時間かかかれば湿気や熱で傷んでしまう。このことを見事に解決した食品だと言えます。驚くことはそれが、魚だったというこで世界一堅い食べ物です。
ちなみに、昔は、生のものは、カツオ(かつお)とし燻し固めた物は、堅魚(鰹)としました。カツオは、煮込むと堅くなることからからきているのだそうです。今では、一般的に生でも堅くても”鰹”となりましたが、私どもでは、今でも生のものは、”かつお”とし、燻し加工したものを、”鰹”としております。